聖書学者は『新世界訳』聖書をどう評価しているか

岩村義雄・著

(「目薬」1996年2月22日号に連載されたものを、発行者の許可を受けて転載)

 

 ニコラス・キップは1960年代からギリシャ語の講師である。キップはプリンストン大学でラテン語とギリシャ語の修士号を取得し,米国ニューハンプシヤー州の聖パウロ監督派男子学校のギリシャ語教師であった。1968年に,エホバの証人になった。「目ざめよ」誌(1987年3月22日号)の10〜14頁にはキップが証人になったいきさつを紹介している。ギリシャ語の専門家であったキップは『新世界訳』聖書(ものみの塔協会発行)が学問的に正確であることに感銘を受け,入信したとある。次のように語っている。

「私は,新約聖書のギリシャ語を教える神学者からギリシャ語を学んだわけではなかったので,ギリシャ語に対して他の人たちよりずっと客観的な見方ができたような気がします。伝統的な教理上の見解に左右されずに,新鮮な目で言葉を調べることができました。」

 「『ギリシャ語王国行間逐語訳』(著者注:ものみの塔発行の『ウェストコット&ホートギリシャ語定本』の行間逐語訳。)に見られるギリシャ語の学識水準は非常に優れています。・‥この本は,ものみの塔協会の出版物の中でも,その価値が大いに見過ごされている宝石の一つだと思います。」

 キップの記事の最後のページの脚注には,ギリシャ語学者たちが『新世界訳』聖書を学術的に支持し,好評していることも引用している。正直さを美徳とするものみの塔協会の組織の引用が真実かどうか本紙は調査した。



「クリスチャン・ギリシャ語聖書新世界訳J に対する論評の一部 

「私は皆様の宣教の業およびその世界的な規模に関心を抱いています。そして,この自由て率直な.力強い翻訳に非常に満足を覚えております。膨大な量の慎重で徹底した研究がこの翻訳に表われていることを私は証言できます」−「アメリカ訳」の「新約聖書」のギリシャ語翻訳を担当したエドガー・J・グッドスピードの1950年12月8日付の手紙。

「明らかにこの翻訳は,熟練した有能な学者たちの手によるものてある。彼らは,可能な限りの英語表現を駆使してギリシャ語本文の真の意味をてきるだけ正確に伝えようとしてきた」−ヘブライ語およびギリシャ語学者アレタザンダー・トムソン,ディファレンシエーター誌.1952年4月号.52−57ページ。

「この新約聖書の翻訳は,聖書翻訳に伴う数多くの問題に聡明に対処てさるだけの資格を備えた学者たちの働きを証ししている」−アンドーバー・ニュートン・クォータリー誌.1966年9月号。

「この新約聖書の載訳は,匿名の委員から成る委員会によって行なわれた。その委員会はギリシャ語に対する並外れた能力を備えていた」−アンドーバー・ニュートン・クォータリー誌.1966年9月号。

「これは普通の行間翻訳てはない。本文には全く手を加えておらず,行間の英語はギリシャ語の語句の基本的な意味を示しているにすぎない。……私はこの本を検討してみて,ギリシャ語専攻の,関心を持つ二年生数人の補助教材として採用した.……匿名の委員会によるこの翻訳は,全く最新のもので,一貫して正確てある。……要するに,今度エホパの証人が戸口を訪れたなら,古典学者てあれ、ギリシャ語の研究者てあれ,聖書の研究者てあれ、エホパの証人を招き入れ,この本を注文すべきてある」−クラシカル・ジャーナル誌.1974年4月,5月合併号に掲載された,「ギリシャ語聖書王国行間逐語訳」に対するネプラスカ大学.トーマス・N・ウィンターの論評から。

目ざめよ!−1987年 3月22日


1.エドガー・J・グッドスピード

(1871〜1962)は20世紀の際立った翻訳家である。協会は1954年に『新世界訳』全巻発行の準備の一環として,ウイリアム・セトナー(1929〜1991)を遣わした。グッドスピードに会い,支持を得るのが目的であった。米国ニューヨークのブルツクリンものみの塔世界本部で働いていたセトナーは報告している。

Questions for Jehovah's Witnesses,Willlam I.Cetnar、1983、P.64)

「2時間に及ぶグッドスピード博士への訪問で,博士が原稿に精通していることは明白でした。というのも反論する箇所が見出せるページ数まで指摘することもできたからです.博士が言及した一箇所はとくにぶざまで,文法的に貧困だった。土師記14章3節のサムソンが言った言葉です.”Her get for me・・・,”(私のためにもらってください彼女を。)私は立ち去る際,公的に翻訳を推薦していただけるかどうかと,グッドスピード博士に問うたら、"とんでもない。推薦など出来ません。文法が情けない。文法に注意を払いなさい。正しさをまっとうしなさい。”の応答であった」
 上記の「目ざめよ!」誌では,グッドスピードは,1950年の手紙で『新世界訳』に満足しているとのこと。しかし,当時のものみの塔協会の出版物でも一度もその手紙を紹介したことはなかった。『聖書全体は神の霊感を受けたもので,有益です』(1963年版)にも登場していないのはどうしてか。

2.アレクサンダー・トムソン

 ものみの塔協会はヘブライ語およびギリシャ語学者であると紹介する。協会はグッドスピードや他の3つの書評とはちがって,トムソンの書評だけを『聖書全体は神の霊感を受けたもので,有益です』(326頁ものみの塔協会発行)にも引用する。

「ヘブライ語聖書の独創的な英訳は極めて少ない。したがって,創世記からルツ記までの[ヘブライ語聖書の]新世界訳の第一部の刊行を大きな喜びを抱いて歓迎するものである。‥‥‥明らかにこの訳は十分に読みやすいものとなるよう特別の努力が払われている。それが斬新さや独創性に欠けていると言い得る人は一人もいないであろう。その述語は決して以前の種々の訳の述語などに基づいてはいない」。 (強調は著者)
 後半の強調部はトムソンの聖書観の一端を示している。「その述語は決して以前の種々の訳の述語などに基づいてはいない」という発言は問題である。トムソンの主張は,現代に至るまでの多くの聖書翻訳を学術的に否定してしまう陳述である。

 後に発行した「ディファレンシェーター」誌でトムソンの述べた『新世界訳』書評も参照してみよう。

「私がかつて三度にわたって.『新世界訳』聖書に関する書評を「ディファレンシエーター」誌に掲載したからと言って,私がエホバの証人の教えに同調しているとは推論なさらないでいただきたい。たとえ,この翻訳がギリシャ語やヘブライ語にない英語のことばを水増しにしているとしても,おおむね,秀逸であった。」

(「ディファレンシェーター」誌1959年6月号.21頁)

 トムソンは「ディファレンシェーター」誌の共編者であった。この雑誌は隔月にごくわずかな部数で発行していたが,今は絶版である。

 グッドスピード博士への取材に赴いたものみの塔協会のウイリアム・セトナーは,トムソンの略歴について次のように述べた。 (Questions for Jehovah's Witnesses,W.I.Cetnar,1983,P.65)

「トムソンはギリシャ語・ヘブライ語を学校で履修したことはなかった。彼はスコットランドの銀行に勤務しており,イエスが神であるとは信じていなかった人物です。」

 実際には,トムソンは『新世界訳』の英語版しか理解できなかったのである。つまり,ヘブライ語・ギリシャ語の本文を検討したわけではない。

 トムソンは銀行員であり,聖書言語の文法の正確さを語る資格もなかった。しかし,ものみの塔発行の出版物では,本書3ページにあるようにトムソンが聖書言語に精通した学者と紹介する。『聖書全体は神の霊感を受けたもので,有益です』(329頁ものみの塔協会発行)参照。

 ものみの塔協会の手法は,自分たちの書籍が信頼に値するものと主張する目的で,平気で真実を曲げていないだろうか。(『神のみ名は「エホバ」か』97〜98頁参照)。

3.ロバート・M・マッコイ

 「アンドーバー・ニュートン・クォータリー」誌(1963年1月号)の引用記事のつづきは次の通りである。

「この新約聖書の翻訳は,聖書翻訳に伴う数多くの問題に聡明に対処できるだけの資格を備えた学者たちの働きを証ししている。カーター・スワインが批評しているように,この訳は特異性,および卓越性を有している。全体として,歴史上の教会に対して挑戦するこの運動について再考することは当を得ているような印象を与える。」

 マッコイの『新世界訳』に関する書評を断片的にとらえてはいけない。「木を見て,森を見ず」ということわざがある。記事全体を見ると,必ずしも『新世界訳』に全面的に賛同しているのではない。マタイの福音書の5章9節の訳の一例を取り上げて,マッコイは次のようにも述べる。

「(ものみの塔協会の)翻訳者たちは,大概の翻訳者たちのように原典の意味に向かう姿勢がない。人はその理由に疑問をもつだろうに」。(同記事31頁。)

 マッコイが『新世界訳』聖書に関して述べている批評を詳細に紹介してみたい。

「ものみの塔協会は既成のキリスト教会を否定する。そのため,出版物にはキリスト教会の教理や伝承を一切受け入れない姿勢がある。自分たちの理解に不都合な教義上の偏見を取り除こうとした努力が伺える。一方,『新世界訳』聖書はイエス・キリストの神性を示す箇所や,暗示する場合,独自の神学的解釈で表現している。ヨハネの福音書8章58節を‘l have been’(私はいるのです)と訳出するのは顕著な例である。」

 マッコイはさらにこうも付け加えている。

「文法的な解釈だけでは翻訳には限界があることを認めなければならない。だから,文法がいかに反神性の可能性を含んでいても,文脈から訳の正当性を決定すべきである。」

 ところで,マッコイが「アンドーバー・ニュートン・クォータリー」誌の記事を書いた時期にも注目してみる必要がある。マッコイがアンドーバー・ニュートン神学校で神学の単位を取得するために『新世界訳』の書評を思いついたのは1955年であった。記事が書かれた頃と言えば,ボストン神学大学で神論の修士課程を取得後,アンドーバー・ニュートン神学校で聖書神学の博士号獲得に取り組んでいた時点であった。つまり,まだ正規の認められた学者ではなかったということになる。ちなみに,アンドーバー・ニュートン神学絞はバプテストとキリスト合同教会が提携して運営している。

 記事の最初に登場するニコラス・キップについて考慮してみよう。

 ギリシャ語の修士号を取得したキップがエホバの証人にのめりこんだいきさつは何だったのか。

 キップが入信したのはアンドーバー市フイリップス・アカデミーのギリシャ語教師になった直後である。アンドーバー市には,上記のアンドーバー・ニュートン神学枚がある。マッコイの記事が目に留まった。キップが『新世界訳』を無批判に受け入れてしまう導火線になったものと推察できる。本書3ページの「目ざめよ」誌(1987年3月22日号)に掲載の「アンドーバー・ニュートン・クォータリー」誌の記事を提供したのもキップであると考えられる。

 教理・教義にこだわる知性派の人ほど異端の主知主義の毒牙に取り込まれる危険が大きい。キップも聖書のみことばではなく,人間の解釈を基準に判断してしまったところに大きな問題点がある。つまり,自分よりアカデミックな面でまさっている人物の発言を無批判に受容してしまう姿勢である。初代教会の時代にも,グノーシスやさまざまな論争があった。当時の人々に迎合されやすいギリシャ哲学の要素を信仰の表明の手段として利用したことによって多くの混乱と分派ができた。

 キップは監督派教会で育った。しかし,アンドーバー市で優勢だったのは,キリストの神性を認めないユニテリアン派の有力者たちだったこともキップの聖書観に大きな影響を与えたにちがいない。ユニテリアン派はヨハネ1章1節の‘the God’を‘a god’とみなす異端である。おそらく,キップはキリスト教の教理史を研究。哲学的思惟の歴史的論争に反感を抱いた。キップ自身は,最終的に知性で神―キリストを認識しようとした。思弁でキリストを把握しようとする意識が方向を狂わせた。純粋に乳だけ,すなわち,聖書だけを慕い求める単純な信仰があれば誤導されずにすんだものにと,わたし自身の入信動機を思い起こしながら,ほぞをかんだ。

 では,ギリシャ語・ヘブライ語に精通した聖書学者は,『新世界訳』にどんな評価をしているだろうか。

@Anthony A.Hoekemaアンソニー・フッケマ 米国,カルビン神学校の組織神学教授。

「『新世界訳聖書』は神聖な本文を現代英語に訳す際,決して客観的な翻訳をしているとはいえない。ものみの塔協会独自の多くの教理が聖書のテキスト自体に忍び込んでいる偏見に満ちた訳である。」
AF.F.Bruce F.F.ブルース イギリスの新約学者,聖書翻訳者。
「私たちが工ホバの証人を覚えるようになったのは『新世界訳』新約聖書の特有の訳であった。‥・神学的傾向にとらわれない訳のいくつかはかなり良いものと注意を引く。」
History of the Bible in English p.184 )

 ものみの塔協会は『新世界訳』の権威付けに上記の書評を頻繁に引用する。しかし,F.F.ブルースは次のように語る。

「“The Word was God”の‘神’に定冠詞がないことを問題にするのは素人の文法学者である。述部名詞はしばしば冠詞をとらない。『新世界訳』の‘a god’と訳出するのは何ら根拠がない。」

BWilliam Barclay ウイリアム・パークレー イギリスの聖書翻訳者。

「このグループは故意に真実を曲解している。[ヨハネの福音書1章1節の]“the Word was a god”は,文法的に不可能な訳である。このような訳し方をしているグループは,学問的な正直さを欠いている。」

 ものみの塔協会の出版物は『パークレー訳』を再々用いる。たとえば,1976年2月15日号では「ことばの性質は神の性質であった」(『バークレー訳』)を引用し,あたかも“the Word was a god”が正しいかのように紹介する。

CBruce H.Hetzger ブルース・メツガー 米国の新約聖書神学者。聖書翻訳委員。

「恐ろしい誤訳である。有害であり,非難すべきものである。もし本気でこの翻訳を認めるなら,その人たちは多神教ということになる。」

 1969年版の『王国行間逐語訳』(ものみの塔協会発行)に引用がある Julius R.Manty ジュリアス・マンティも抗議文を出した。



ジュリアス・R・マンティ
フロリダ州ニューポート・リッチイ
パルミッテ・ローード 414
1974年7月11日



ものみの塔聖書冊子協会
ニューーヨーク州ブルックリン
アダムズ通り117

拝 啓

 私はカリフォルニア州のサンタ・アナ市のカリスに宛てたあなた方の手紙の写しを入手している。その手紙で扱われているあなた方の陳述、及びダナ・マンティによるギリシャ語文法書からの引用には全く同意できない意を表したくペンをとっている。

(1)あなた方の陳述:「ダナ・マンティ両氏の著作によると、『王国行間逐語訳』のヨハネの福音書1章1節の翻訳を承認する」とあるが、わたしたちは文法書の中でa godと翻訳可能であることを暗示する一切の陳述をしていない。

A.
三位一体を支持するために論じなければならない「根拠」は、全然取りあつかわなかった。
B.
さらに三位一体を証明する意図があることも何ら言及しなかった。ただ、聖書用語の固有の事実を正確に概説したにすぎない。
C.
あなた方は、『連結文における主語について』という副見出しの143頁の第3項目から引用しました。 そこの2つの例は「冠詞が、その2つの文の主語を明らかにする。」という例証を思い出すように用いている。しかし、そこでは次のこと以外は意味合いとしては全然ふれていない。つまり「このままでは(冠詞がない場合)三位一体の神を示唆するかも知れない。」という含みがある。ということは、あなた方が勝手に推論した訳a god(一人の神、又は、不定の神)とは全く逆になるのではないか。文脈を無視しているのも甚だしい。文法書の139頁及び140頁の第4項には次のように言明している。「冠詞なしでは、セオスの意味は神としてのご性質、属性を表している。つまり『ことばは神であつた。』ということは、キリストが神としてのご性質を共有しておられたということを強調している。」わたしたちの解釈は、NEB(新英訳聖書)や、TEV(パークレー訳)の翻訳と一致している。「神はどのような方であられたのか、ことばはそういう方であられた。」という訳とパークレー訳の「ことばのご性質は神のご性質と同一であった。」である。これは あなた方がカリスに宛てた手紙の中で引用した2人の訳である。

(2)JBL(聖書文献ジャーナル)のコールウェル氏、又、ハーナー氏の記事以来、特にハーナー氏の記事によると、ヨハネ1章1節を「ことばは a god であった。」と訳出するのは学識的でもなければ、又、道理にもかなっていない。語順からみてみると、そのような訳は廃棄された用い方であり、不正確である。

(3)コールウェル氏の規則をあなた方は引用しているが、不適格である。というのも、彼の研究の一部分しか引用していないからである。 あなた方は彼の次の強調点を引用しなかった。「動詞の前にある主格補語は、ただ単に冠詞がないからといって、不定(不定冠詞‘a’をつける)として、あるいは『質的』名詞として翻訳することはできない」と強調していることを無視している。

(4)JBL(1973年版92巻その1)のハーナー教授はコールウェル氏の研究したことより、もっと詳細にほりさげている。 ハーナー教授は動詞の前に冠詞のない述語名詞は、主に主語の性質、又は、特質を表していると発見した。そのことはヨハネの福音書の53ヶ所及びマルコの福音書の8ヶ所の聖句によって裏付けられている。この2人の学者によると福音書を書いた筆者たちは、不定の主語の時には、いつも動詞の後ろにその主語を置いていると述べている。コールウェル氏及びハーナー氏両人はヨハネ1:1のセオスは不定ではない故に a god と訳されるべきではないと言っている。今日ではものみの塔だけがそのような訳を支持している。文法的な証拠から言うと、99%間違っていると言える。

(5)あなた方の手紙の陳述によると、聖書の本文は誰かの規則の本に基いてではなく人々を導くとある。そのことであるなら私たちは同意する。しかし、エホバの証人を研究してみると、自分たちの異端的信条と相入れない「聖書本文」があると、必らず自分たちの主張と反対のことを行っている。 例えば、コラシスを「切断」と訳出しているが、辞典で見い出すコラシスの唯一の意味は刑罰である。 ヨハネの福音書8章58節にあるエゴ・エイミを I have been とするのは誤訳である。 ヘブライ9章27節に付け加えている for all time はギリシャ語の新約聖書では何ら支持していない。キリストはご自分を謙遜にへりくだらせ、地上で人間の体でお住まいになる前には、万物の創造者(ヨハネ1:2)、又、「神と同等である」(フイリピ2:6)とたたえられている。ところが、アルケー・テス・クティセオスを、「創造の始め」と誤訳することによつて、キリストを軽視してしまっている。 あなた方が「父はわたしより偉大な方である」(ヨハネ14:28)をよく引用するのは、フイリピ2章6節から8節で述べられているイエスが、神と同等の立場ではなくなった時期について気付いていないからである。イエスが「父はわたしより偉大な方である」と言われたのは、自ら恥ずかしめられた状態におられた時である。そして、そうした卑しめられた状態は昇天の際に終ったのである。

 何故、次のように意図的に人々をだまそうとされるのか。 ルカの福音書23章43節の「今日」のあとに読点(、)の位置をずらしている。あなた方の翻訳を除いて、ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、英語のいずれの聖書にもそのような例は当たらない。あなた方の「王国行間逐語訳」のギリシャ語にさえ、レゴ−(私は言います)の直後にコンマ(読点)がある。さらに、そこではあなた方も「今日あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう」と訳しているではないか。 第二コリント5章8節には「この体から離れて主のもとに自分の住まいを定めること」という聖句は救われた者たちが死後、直ちに天に行くことを教えている。あなた方が教え込むように命は復活まで死んだままであるという教理は聖書にない教えである。参照聖句:詩編23:6 ヘブライ1:10

 これまでにあげた例は、神のことばを擁護し、ものみの塔協会の誤訳を指摘しているわずかにすぎない。

 以上の事柄から、あなた方はわたしの著作を文脈からはずして引用し、特に24年間にもわたって用いてきた「ギリシャ語新約聖書便覧」をこ度と引用しないように要請する。さらに今後、一切あなた方の出版物にわたしの著作物や名前を用いてはならない。

 尚、あなた方は公に、且つ、直ちにものみの塔誌で謝罪すべきである。 ヨハネ1章1節のセオスの前の無冠詞に関してわたしの発言は何も裏付けとなっていない。さらにカリスに手紙を書き、あなた方の間違いを、そしてわたしの文法ルールの誤用を明らかにして下さい。

 わたしの文法書の序文の前置きにこう書いてある。「著作権は全てこちらのものである。著者の許可なしに、勝手に複製することは許されていません」。

 もしあなた方は許可を得ているというのなら、そのコピーを郵送して下さい。

 もしあなた方がこうした要求に留意していないなら.、結果に対して責任を負わねばなりません。

敬具

Julius R. Mantey

《『ものみの塔文書資料集』(118−119ページ 真理のみことば伝道協会発行)参照。》



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